02 / STORY
死神の魔術
「うっ……んっ!」
思わず、声が漏れた。
「大丈夫ですか? 具合でも悪いんですか?」
そばにいた女性が、心配そうに声をかけてくる。
隣に立っていた中年の男性も、不思議そうな目で私を見ていた。
「い、いえ……だ、大丈夫です……あっ……!」
また声が漏れる。
まずい。
周りの人たちから見れば、私はただ、満員電車の中で突然苦しみ始めた若い女性にしか見えないのだろう。
気づけば、何人もの視線が私に集まっていた。
恥ずかしい。
逃げ出したい。
でも——動けない。
今日の死神は、私の身体だけを魔術で拘束していた。
口だけは、塞がれていない。
それが、かえって辛かった。
声を出せば、周囲の人に聞かれてしまう。
けれど、必死に我慢しようとするほど、呼吸が乱れていく。
「っ……く……」
私は唇を噛み、漏れそうになる声を必死に押し殺した。
誰にも助けを求められない。
誰にも、この死神の姿は見えていない。
私はただ、周囲から向けられる奇妙な視線に耐えながら、身動きもできないまま、苦しげに身を震わせることしかできなかった。
02 / CONTINUED
首枷の鍵
「あぁ……っ、いや……」
今朝もまた、死神の魔術は続いていた。
いつからだろう。
あの怪しげな術に囚われてから、私はもう、自分の身体さえ思うように動かせなくなっていた。
死神の命令には逆らえない。
まるで、見えない鎖でつながれた囚人のようだった。
「お願い……します」
声を震わせながら、私は懇願する。
「せめて……声が漏れないようにしてください」
すでに車内には、私の苦しげな声が何度も響いていた。
周囲の乗客がこちらを気にしている。
けれど、彼らには死神の姿も、私を縛る魔術も見えていない。
死神は、そんな私を見下ろした。
「いい子だ」
低い声が、耳元に落ちる。
「ならば、褒美をやろう」
次の瞬間——
冷たい金属が、私の首に触れた。
カチリ。
死神は黒い首枷を嵌め、その中央に小さな錠を掛けた。
「何……?」
私は震える目で死神を見た。
死神は何も答えず、ゆっくりと片手を開く。
その掌には、小さな黒い鍵がひとつ。
「その鍵……?」
死神は指を閉じた。
そして鍵を、自らの懐へしまい込む。
「これは私が預かる」
「そんな……」
「その首枷を嵌めている限り、お前に掛けた術は解けない」
私は息を呑んだ。
「じゃあ……外すには……」
死神は、静かに笑った。
「私が鍵を使うしかない」
その言葉を聞いた瞬間、首に嵌められた枷が、急に重くなったような気がした。
逃げることも、自分で外すこともできない。
私の自由を取り戻す鍵は、最初から死神の手の中にあった。
02 / AFTERMATH
目覚め
「いやぁー!!」
私は、自分の悲鳴で目を覚ました。
「夢……? いや、違う……」
ベッドの端から頭だけが落ち、長い髪が床へ垂れ下がっている。白いシャツははだけ、レースの下着が透けて見える。
首には、冷たい金属の首輪がしっかりと嵌まっていた。
南京錠が、喉のあたりで小さく光っている。
手首に残る縄の痕を、指でそっとさすりながら、身体が小さく震えた。
死神の首輪は、自分では外せない。
無理に外そうとすると、罰を与えるように、様々な魔力で私を責め立ててくる。
他の人には見えないはずのその首輪が、今ははっきりと肌に食い込み、常に私を監視し、飼い慣らしていた。
閉じた瞼の裏に、まだ夢の残滓が残っている。
叫びながら目を開けた瞬間、首の重みと、シャツの隙間から流れる冷たい空気だけが、現実だと教えてくれた。
02 / OFFICE
社内調教
死神に嵌められた首輪は、他の誰の目にも映らなかった。
白いブラウスの襟元に触れているはずの冷たい金属も、同僚や上司には、そこに何もないようにしか見えない。
それでも就業中、怪しげな魔力は休みなく私を追い続けていた。
デスクに向かい、書類へ目を落とす。
指先はキーボードの上で正しく動いている。けれど、胸の奥だけが落ち着かなかった。
カチリ。
首元で、小さな錠が鳴った。
「あっ……」
声が、喉の奥から漏れた。
次の瞬間、見えない縄が両手首へ巻きついた。
椅子に沈んだまま、指一本動かせなくなる。
(なに、これ……?)
電車の中で味わった、あの感覚と同じだった。
誰にも見えない拘束。
誰にも助けを求められない恐怖。
襟元がわずかに引かれ、ブラウスのボタンがひとつ外れた。
冷たい空気が肌に触れる。
窓の外にはビルが並び、ガラスの向こうでは、何事もない朝が始まっていた。
すぐ近くでは、同僚たちがいつも通り仕事をしている。
それなのに、私だけが別の世界に閉じ込められていた。
「言うことを聞きますから……どうか、やめてください……」
思わず口にした瞬間、首輪の魔力が一度だけ弱まった。
けれど、それは解放ではなかった。
次の命令を待つように、首輪が静かに脈打っている。
指先から脚へ、微かな痺れがゆっくりと広がった。
呼吸が浅くなり、モニターの文字が滲んでいく。
死神の姿は、どこにも見えない。
それでも分かる。
どこかで私を見ている。
会社にいても、逃げられない。
鍵を握られている限り、私の日常はすべて、死神の支配の中にあった。
02 / THE THRONE
首輪の支配
昼間のオフィスで、私は言ってしまった。
「なんでも、言うことをききます」
その言葉が、首輪の鍵になったのだと知ったのは、夜になってからだった。
デスクも、書類も、同僚たちの視線も消えている。
残ったのは、冷たい床。見上げるほど高い天井。そして、大きな窓の向こうに沈む街の灯だけだった。
部屋の奥では、死神が革張りの玉座に腰掛けている。
巨大な大鎌を傍らに立て、その足元に——私は跪いていた。
白いブラウスは雨に濡れ、膝をついたまま、身じろぎさえできない。
首にはめられた輪が重かった。
小さな錠が喉元で揺れるたび、昼間、自分の口から零れた言葉を思い出す。
——なんでも、言うことをききます。
頭上から、黒い手袋が降りてきた。
指先が髪に触れる。
私は動かなかった。いや、動けなかった。
昼間に差し出したあの一言が、今はもう、私の身体の向きさえ決めているようだった。
「……従います」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
顔を上げる。
深いフードの奥で、白い髑髏が何も語らず私を見下ろしている。
恐怖は消えていない。床に触れた膝の痛みも、自分が見下ろされているという意識も。
すべて、はっきりと残っている。
それでも——逃げようとする力だけが、もう首輪の内側には残されていなかった。
黒い指先が顎に触れ、ほんのわずかに上を向かせた。
私は逆らわなかった。
昼間に口にした約束が、夜の玉座の前で、初めて目に見える形を持った気がした。
もう、言葉だけではない。
首輪も。跪いた膝も。伏せた瞳も。
すべてが、あの一言の続きを語っていた。
窓の向こうで、街の灯が遠く瞬いている。
籠の外には、まだ世界がある。
けれど籠の鳥は、もう羽ばたかなかった。
ただ死神の足元で——静かに、息をしていた。